肺がんの人の体験談 40歳代女性


 みなさんこんにちは。ちょっと緊張しています。よろしくお願いします。自己紹介をします。

私は肺がん患者です。私は現在47歳です。夫と息子3人家族です。息子はいま12歳です。先月で告知されてから7年経ち、いま8年目に入りました。告知されたとき、私40歳でした。で、夫と、息子ですね、このとき4歳でした。

 201210月、告知されました。肺腺癌のステージ4です。左肺の上3.5cm、肺内リンパ節に転移がありました。多発骨転移もありました。そのころ仙台に住んでいました。仙台の市から40歳の検診案内が届きました。5年前の35歳で出産を機に会社を辞めていましたので、婦人科の検診だけは受けていましたが、4年後の検診の検査を受けていませんでした。出産、授乳期とか、そこにあの、主人の転勤があって仙台に行きますが、その年に東日本大震災にも遭い、なんとなく落ち着かず、気にしながらも4年が過ぎ、そういえばいつも気になっていたので、市からの案内はとてもいい機会だと思い、早速受けることにしました。

 まず春に婦人科検診から気になるので受けていき、途中友達に胃がんになった子がいたので胃がんを先に受け、最後子どもの夏休み明けに、9月に肺のX線を受けました。全身の検診は4年ぶりでしたが、肺がんはたばこを吸わないので自分には関係ないと思い、検診の結果すら開けませんでした。何週間か経って郵便物の整理をしているときに開封して、青ざめました。慌てて検査を受けに行き、再検査はCTX線のみでした。CTの画面をみて、その診て下さった医師が、ただごとではない顔をしていました。「大きい病院を紹介してあげるから、このなんとか君は、腕がいいから大丈夫、〇〇君でも大丈夫だよ、とにかく〇〇君に紹介状を書くから絶対逃げないように、こわがらずちゃんと病院行くんだよ。予約もとっておいたから必ず行くように」と何度も念を押されて、帰ることになったんですけど、どこかの偉い先生だったのか、おじいちゃんの先生だったんですけど、肺にかなり詳しい感じでして、貫禄のある先生でした。ま、このとき告知はされませんでしたが、もう告知されたような状態でした。

 まあ大変なことになっているんだな、初期じゃないかもしれない、いや何かの間違いかもしれない、と、なんかいろいろ考えながら、駅まで10分くらいだったと思いますが、とりあえず半泣きで歩き、落ち着こうと思ったその駅ビルで、なぜかあの、泣くつもりはなかったのですが、大量の涙が出てきて、なんでこんなに出るんだよと思いながら、結構トイレにいたことを思い出します。で、このあと、遠隔転移があることで手術ができず延命治療になっていくんですが。

 

 このときどん底に落ちる

 2度ダメージうけました。あと、正式に告知されたとき、自分の中で、なんとか気持ちに整理をつけ、「手術をして治すんだ頑張ろう」と前向きになったところに、「遠隔転移があるため手術はできないことになりました」と伝えられたとき、もうなんというんですか、目の前が真っ暗になって頭の中が真っ白になるってこういうことなんだなーって体感しました。

この現実を私に伝えたのは、そのときの先生ではなく主人でした。この日初期の一連の検査の途中で、頭のMRIを撮っていました。私がそのMRI中にちょうど前日撮ったPETの検査の結果が分かったようで、主人と母に伝えられていたようです。

 で、MRIのあと、出てきた私を主人がつかまえて、ちょっと車に行こうと連れて行かれまして、そこで「骨転移があるから手術はできないんだよ」という話を聞かされて、まあもう、ただただ涙が出て止まらず、まあどのくらい泣いたか分かりませんが、泣きながら1リットルのペットボトルを3本空にしたことは覚えています。

 主人にはこんな嫌な報告をさせてしまい、長時間ただ泣いて呼吸しているだけの私に付き合ってくれたことを感謝しました。そのとき母も来ていたんですが、母はその間にすべての支払い等を済ませてくれ、この日私は車の中から病院に戻ることなくそのまま家に帰ることになりました。

後日病院に行き、「延命治療になるので実家の近くに住んで治療されたほうがいいのではないか」と言われ、手術の間、子どもの面倒をみてくれるために来ていた母と、仙台から大阪に向かうことになりました。

 とにかく気持ちが落ち着かないというかあれなので、気持ちをとにかく立て直さなきゃと思い、まああれだけ泣いたので、もう泣くのはやめよう、人前だけでも泣かない、子どものために笑顔でいようと決めました。とにかく子供の成長を見たい、子どもに思い出を残してあげたい、愛されていたと記憶を残してあげたい、子どもの記憶に残りたい、そういう気持ちで過ごしていました。

 気持ちを立て直し、なんですか、これをやっぱり維持しなくてはいけないので、自分の中で目標や楽しみをつくりました。小さい目標、まあ近い目標ですね、をまずつくり、このころ1年半後にある卒園式・入学式に出ることが小さな目標でもあり、まあまた大きな目標でもありました。そのあとは1年ごとの進級ですね、2年生になること、3年生になること、その間の家族旅行や行事などが小さい近い目標として、こなしていくというか、まあ楽しみをつくる日々でしたね。で、中間的な目標として、小学校4年生10歳のときに2分の1成人式があるという話を聞いたので、なんか学校で行事があり、親に宛てた作文を読んでくれると聞いたので、これはもう聞かなきゃいけない、勝手に私宛ての感謝の手紙がもらえると思い込んで、発表してもらえると思いながら楽しみにしていました。

 無事2分の1成人式を迎えることはできましたが、なんか年々内容がかわるようで、結局そんな発表もなく、終わってしまったんですが、あの、2分の1成人式に出席できたことがとても嬉しかったです。

 で、当初いちばん大きな目標が小学校の卒業式でした。まあこれはちょっと無理かなあと思い、まあ目標を立てたわけなんですが、今年小学校6年生になりまして、最初大きな目標だった卒業式があと4カ月後にきます。なんとか無事卒業式を迎えるため、まあ日々治療を頑張っていきたいと思っているところです。そして、またクリアできたならば、新しい目標をつくり、頑張っていきたいと思っています。

 

 ここで病歴です。

 まあちょっと細かいことを色々書いてあるんですけど、201210月に治療を開始して、分子標的薬っていうあの飲み薬で治療を開始し、これが1年10カ月、次に昔からある点滴の抗がん剤で2カ月、その間に脳転移があったりしたんですが、また分子標的薬をし、6カ月ですね。4番目、普通の抗がん剤で2カ月。5番目、分子標的薬、4カ月。6番目にここでちょっと治験にチャレンジすることにしまして、これは残念ながら11日間で終わってしまったんですが、ちょっとアレルギーが出たので中止にということになりました。

 まあでも11日間だけだったんですが、結構上がっていた数値も、身体もちょっとしんどかったんですけど、これがかなり解消されて、11日すごく効果を実感できた治験でした。で、次7番目、分子標的薬、これも飲み薬で7カ月、こちらもまた分子の飲み薬で7カ月。いま現在も分子標的薬、こちらも飲み薬で2年10カ月、使えています。私に効果的なのは分子標的薬でした。まあとりあえず、このいちばん長く使えている2年10カ月なんですけれども、ひととおり、今まだちょっと使えていますが、もうひととおり使ってしまっている状態ですので、中には2度使ったものもあります。これからも繰り返し使えるかどうか分からないんですけども、これからの治療は難しくなっていく状況です。

 

 再び落ちる

 子どもを励みに気持ちを立て直してきましたが、治療を始め、再び落ちます。

このとき実家はありますが、住んだことない土地でしたので、友達がいません。幼稚園も途中入園で、息子が入園してすぐに入院しました。そのときはすぐに死ぬと思っていたし、積極的に友達をつくれない、薬の耐性も気になる、次々に薬がかわる、髪が抜ける、出歩きたくないとなり、人に会いたくない、ひっそり死にたい、かなりものすごくマイナスな感じでした。

 まあ、とはいっても、まあ生活があるので、毎日暗く沈んでいるわけではなく、まあ普通に元気に暮らしているんですけど、こういうことが頭から離れず、心が晴れない日々を過ごしていました。 このとき支えになったのは家族の存在でした。私たち家族は実家に住んでいます。同じマンションのフロアに妹家族が住んでいます。当時小学生だった姪が2人いて、いつも誰かが実家にいる、にぎやかな環境です。動物園や水族館、BBQやキャンプ、旅行、一緒に行けるし、毎日がわいわいして、私だけではなく息子も、大家族志望だったのに一人っ子だったんですけれども、「大家族だー」と言って、いまでも喜んでいます。この環境には本当に支えられました。主人にも大変感謝しています。

 

 自分の病気を知る

 なんで私が肺がんなの?タバコも吸わない、大きな病気もしたことない、家族にも近い親戚にもがん患者はいない、「なんで私が?」から始まりました。どうやって情報を得たらいいのか、どうなっていくのか、何年生きられるのか、薬の種類はどのくらいあるのか、毎日子どもが寝た後、夜な夜なネットで情報を探していました。

 そしてたどりついたのが、闘病ブログでした。治療の選択や薬の副作用、副作用の対処方法や工夫、どんな生活ができるのかとても参考になりました。ときには希望をもてたり励みになりました。ただ最初のころ、私が肺がんになったころ、7年前はほとんどの方がすぐ亡くなっている状況でした。ブログのほとんどが更新されていないブログで、最近は新しい薬がどんどん承認されて、長く使える薬も増えたので、いまはたくさんの方が闘病ブログをされています。

 

 仲間を探すということで、7年前長生きされててブログを書いている人も少なく、私が知る限りでは1人でした。同じ遺伝子変異で、同じ年頃だったと思います。明るく非常に前向きなブログでした。私には治療がとても参考になり、何よりも勇気をもらえていました。私も困っている誰かの力になればと、ブログを始めました。気づいたらブログをされている同世代の方がかなり増えたことに驚きました。長く生きられるようになったんだなと実感しました。

 そこでブログの中でコメントでやりとりをするようになって、ブログの友達ができていきました。その中で、男性2人が患者会をつくることになり、実際初めての患者会で8人の方にお会いしました。会った時、なんともいえない安心感があり、多くのことを語らなくてもいい、分かりあえる喜び、病気を隠さなくていい嬉しさ、そのとき私は脱毛してウィッグをしていましたが、そのこともバレたらなんてびくびくすることもなく、そのことですら楽しく話せる、心が軽くなりました。

 そして、もっと会いたい、もっと話をしたいと思いました。大阪で患者会、肺がんの患者会はありませんでした。もっと気軽にちょくちょく会いたい、気軽に話したい、そんな気持ちがいつもありました。ブロ友さんが患者会をつくりましたが、その方がつくったのは大阪ではありませんでしたので、やはり大阪には患者会がない状況でした。

 じゃあ作る。そうですね、初の患者会で知り合った大阪の友達、その大阪の女性の方とつくろうという話になり、女子会をしようという話になり、肺がんの女子限定のおしゃべり会をつくることになりました。それを「肺女子会」と名づけ、とにかくしゃべる、おしゃべり会です。ランチをしてお茶をする、そういう店をかえる時間がもったいないので、だいたい11時~17時くらいまで時間制限なしのビュッフェの店を選び、ひたすら食べながらおしゃべりタイムという、都合によって来る時間も帰る時間も自由にして、お子さんのお迎えや早めに帰られたりする方もいるし、家の用事を済ませてから参加されたりもできるようにしたかったので、ビュッフェのお店を選び、長時間話ができるようにしました。

 最初から最後までいらっしゃる方も結構多くて、女性ですから話も尽きることなく、食事も楽しみながら、もうほんとに話しまくってる感じです。病気の話や副作用の話もありますが、家庭の話や、くだらない話を色々しながら、だいたい8割くらい笑って、食べてます。落ち込んでいた方も参加されることによって、楽しんですっきりして帰られます。

 何度か開催されて、しているうちに罹患されたばかりの方、不安と闘っている方、落ち込んでいる方にも参加してもらい、元気になってほしいと思うようになり、ここを出会いの場として、たくさんのお友達をつくってもらい、仲良くなった方と一緒に出掛けたり、食事に行ってもらったりして、もっともっと元気になってもらったらと思うようになりました。

 そうやって女子会を続けていたんですが、やっぱり大阪には患者会ができない。そのうち、男性は参加できないの?とか、大阪にも男性が行ける肺がん患者会はないの?と聞かれるようになりました。そろそろ誰かがつくってくれるんじゃないかと思い、待っていたんですが、大阪には肺がん患者会ができません。その肺女子会を一緒に企画していたお友達と、今年の4月に思い切って、肺がん患者ならだれでも参加できる、患者限定の患者会「肺フレンズ会」をつくりました。まだ4月と9月、まだ2回しか開催していませんが、定期的に続けていきたいと思います。

 他に神奈川のワンステップという大きな患者会があるんですが、そこと共催で年に2回おしゃべり会をやっています。あと、先月、大阪でもパールリボンキャラバンというので、市民公開講座を開きました。今年は、私の息子が6年生ということもあり、サッカークラブの役員をしているため忙しく、活動に参加しきれてませんが、いまこうやって前向きに生きていられるのは、出会いの力がとても大きいです。患者会で聞いてもらったり話したりすることで、息抜きや発散になる、答えは出なくてもなぜか気持ちが落ち着く、気持ちが分かり合えることですっきりする、前向きになれる、病気と向き合える、次の治療への励みになる、仲間をつくり、自分の居場所をつくり、病気と向き合う力をつくってもらえたらと思います。私もたくさんの方に合って力をもらっています。

 

 自分の病気を知る2 

 先ほどはネットでの情報が中心でしたが、市民講座が開かれていることを知ってからは、たくさんの市民講座にでかけました。病気の知識や正しい情報を知ることが大切だと思います。私が罹患してから、新しい薬もたくさん出てきました。遺伝子も新しく見つかって、新しい情報も見つかっています。新しい情報も市民公開講座では勉強でき、難しそうな話だと思っていたことを分かりやすく知ることができます。ここで患者力をつけ、怯えて生きない、自分も理解して主治医と話をして治療を決めていけるようになる、それはとても大切なことだと思います。

 

 今後の課題

 ちょっと暗そうな話なんですけど、死ぬ前に必要になってくる判断、これを決めていかなきゃいけないなーと最近思います。治療がなくなったら、治療をやめるタイミング、どこで最期を過ごすか、これを決めておかないと家族が困るんじゃないかと思って、考えているとこなんですが、まだちょっと結論は出ていないんですが、これからの私の課題です。

死んだあとですね、死んだあとのことはちょっと分からないんですけども、一応家族の参考になるように私の意見を残しておいて、まあ好きに決めてもらえたらいいんじゃないかなと思っているんですけれども。迷った時の何かを決めておきたいと思います。

 

 あとですね、向き合えないことがただひとつありまして、子どもにまだ病気を伝えていないんですね。子どもに病気を伝えること、これがなんか私の中では課題ではあるんですけど、なかなか向き合えないです。

 子どもに病気と伝えるってことは、最初4歳だったので、死というものを理解できるんだろうか、できないんじゃないかということで、ちょっと、その時点で伝える気はなかったんですけど、まあちょっと精神的に不安になったらどうしようかとか、親の死に怯えて暮らすより、私がいけるところまで楽しく過ごさせるっていうのもいいんじゃないかと。

また機会をみて、体調が悪くなったり、次に脱毛するときに、報告しようなんて考えているんですけど、まあ結局自分が言えないだけです。

 もう中学生になりますので、そろそろ、まあ脱毛する抗がん剤を使う予定もありますから、いよいよかなーと時々思いながら、やっぱり言えないなーと、とひとりで焦っています。これはちゃんと言わなきゃいけないことだなと思います。はい。

 

 先ほども言いましたが、先月で告知されてから7年経ち、8年目に入りました。

まだなんかこうちゃんとできてないこともたくさんありますが、10年目を目指して、日々楽しみながら、頑張っていきたいと思っています。ご清聴ありがとうございました。